「西の浅草」と謳われた華やかな全盛期
神戸・新開地地区は、1905年(明治38年)、旧湊川を埋め立てた跡地に自然発生的に生まれました。
瞬く間に芝居小屋や活動写真小屋が立ち並び、一大歓楽街となった新開地。その繁栄ぶりは、「東の浅草、西の新開地」と謳われ、全国有数の娯楽のメッカとなりました。
当時、ここで毎日のように映画を観て育った故・淀川長治さん(映画評論家)は、お金持ちから庶民まで楽しめた新開地を「神戸文化の噴水」と称しました。
また、神戸市役所が隣地に立地 するほか、新聞社、電力会社、ガス会社などのライフライン機能が集積し、都市機能も充実。加えて、地区に立地している 湊川公園では、常設の音楽堂などで数々の催しが開催され、神戸市民の憩いの場として、多くの人々が訪れていました。
1945(昭和20)年の神戸大空襲で地区は全焼しましたが、戦後、映画館を中心に次々と娯楽施設が復活。1km弱の新開地本通りに20以上の映画館が軒を連ねる有数の「映画のまち」として大いに賑わいました。
1925年(大正14年)、日本絹業博が開かれた当時、ライトアップされた初代・聚楽館
大正から昭和初期、全盛期を迎えた新開地本通りの様子。「劇場24館、商店202軒」を擁したとされる
「一大歓楽街」から「行ってはいけないまち」へ
高度経済成長期に入り、新開地を襲ったのは、業務機能の地区外移転でした。1957(昭和32)年に神戸市役所が三宮地区に移転すると、次第に商業集積の密度も低くなりはじめました。
1960年代後半(昭和40年代)になると、娯楽の多様化により、映画館への来客数に陰りが見えはじめ、まちを支えてきた名物映画館や演芸場が次々と閉鎖。 市電の廃止などでターミナル機能を失い、集客の勢いが失われました。
1970年代(昭和50年代)には、毎日大量の来街者を得ていた沿岸部の川崎重工の工場が移転・縮小し、新開地の衰退は決定的に。
町が荒れるようになり、いつしか新開地は「こわい、汚い、暗い=3Kのまち」として、市民の足が退くようになりました。
昭和30年代の新開地本通り。「笑いの殿堂・松竹座」の辺り。湊川レコード前では、しばしばスターのキャラバンが行われた
昭和50年代の新開地本通り。現在のシンボルゲート「BIGMAN」前辺り。古くて暗いアーケードが続いていた
1980年代(昭和60年代以降)、「このままでは立ち行かなくなる」と危機感を持った地元の商店主たちが、神戸市の条例に基づくまちづくり団体として、「新開地周辺地区まちづくり協議会」を結成。「アート」と「遊び」そして「都市居住」の3本柱を掲げ、再生の活動を進めていきます。
ところが、様々な問題を乗り越えようとしていた矢先の1995年(平成7年)1月17日、阪神淡路大震災により地区の7割強が全半壊し、町は壊滅的な打撃を受けてしまいます。
とうとう、再生へのきっかけを失ったかに思われました・・・。
アーケードを外し、明るくなった新開地モール(現在のBIGMAN前)
阪神淡路大震災で傾いた新開地商店街のアーケードと店舗
復興から再び愛されるまちへの挑戦「B面の神戸」
震災の5日後、まちづくり協議会の役員会が救援テント小屋で行なわれました。そこで確認されたのは、「震災後の復興で、目指すまちづくりを実現させること」でした。 2ヶ月で地区のマスタープランをまとめて神戸市に提出。倒壊アーケードの再生や再開発の動きを一気に加速させました。
その中で効果を発揮したのが 「建築(現・まちなみ)デザイン誘導制度」。復興の概念を超え、新しいまちなみづくりに大きく貢献しました。この動きの中で長年空地となっていたいくつかの箇所でも土地利用が行なわれ、開発された場所は10箇所にも及びました。
一方、地元主導・行政支援でまちづくりのエンドレスシステムづくりを模索していたまちづくり協議会では、地区内の民間施設立地による寄付金をもとにまちづくりのための会館を購入。1999年(平成11年)に新しいまちづくり・地区再生の取り組み組織として、「新開地まちづくりNPO」を同時に設立。いわゆるタウンマネージメントを「新開地FAN」づくりという 戦略をベースに、企画や調整、実施し、実績を上げていきます。
まちがひとつになって取り組んだ結果、2010年には湊川公園のリニューアルが実現。魅力的で賑わいのある都会のオアシスへと再生し、ガーデニング活動や様々なイベントが行われています。
また2012年には、聚楽横丁地区全7路線の路面整備が完了。新開地地区の魅力のひとつである路地横丁の「隠れ家」的雰囲気をより一層引き立て、商業の活性化を強化。ソフト・ハード両面ともに魅力あるまちとして、様々な取り組みを継続しています。
2011年、市民に親しまれる公園に生まれ変わった湊川公園